Daniel Martin Diaz

"Invisible Process"

彼の芸術作品の面白いところは古典文献の挿絵のような表現をおこなっているところである。
ボイニッチの手稿に描かれているような挿絵のような彼の挿絵作品の面白いところは、
それぞれが、「何かを伝えようとしている」と捉えられるのではなく、「何かを説明しようとしている」と捉えられることである。
もっとも芸術作品において、直接的に何かを表現というのはナンセンスである。
例えば虐げられていることを表現しようとして、直接的に虐げられている絵を描くことは芸術なのだろうか?
いや、その絵はカンバスの上に描かれたマークとしての価値以上の意味をなさないであろう。いわば交通標識と同じなのである。

しかし彼の作品においてはその交通標識のような表現が我々を惑わせている。
一見何かを解説しているかのように見えるが、よく見てみると何も説明していない(あるいは何を説明しているのかは全く理解できない)。
このことが我々の脳を惑わせ、印象的な絵だという風に捉えさせるのだ。
似たような例を挙げるとすればユーザーインターフェースである。
チェックボックスの形態をした、ラジオボタンを実際に操作した時、我々は混乱することであろう。
それはすでに一般化された、言うなれば無意識下の共通認識を覆した反応を見せるからである。

あなたが覚えている夢はどんな夢だろうか。それはきっと奇想天外な夢であったり、恐怖を感じる夢であることだろう。
人というのは想定外の何かと対峙した時、少なからずストレスや嫌悪感・恐怖を感じるものである。
そしてこのストレスや嫌悪感・恐怖といったものこそが、物事をより強く印象に残すのだ(最近CMが不快だと感じたことはないだろうか?広告業界はいち早くこの手法を取り入れている)。
快楽は薄められた苦痛であるということはよく言われるが、その濃度が重要である。
優れた画家、印象的な絵を描く画家というのはこの苦痛の濃度を上手に扱うことのできる人間なのだろう。