Francisco José de Goya y Lucientes

"Saturno devorando a su hijo"

ゴヤといえば日本の義務教育でも一度は目にする画家であり、
戦争画である「El 3 de Mayo de 1808. Fusilamientos en la montaña del Príncipe Pío」は誰しもが目にしたことのある作品であろう。
王立美術アカデミーに入会していたこともあり、宗教画を多く書いている、そこではあまり他の画家と違った魅力というのは感じなかったのだが連作である「Pinturas negras」シリーズには思わず目を奪われた。
特に金のための作品ではなく、自分のために描かれたこちらこそが彼の真髄であると私は思う。


「Saturno devorando a su hijo」(我が子を喰らうサトゥルヌス)はあまりにも有名で、
一度見ればその強烈なビジュアルが視覚野にべっとりとこびりつくことであろう。
この絵は巨人であるサトゥルヌスが我が子によって追放されるという予言に怯え、次々と生まれてくる我が子を食らったという逸話に基づいている。
この絵の中で特に面白いところはやけに動的に描かれたサトゥルヌスと静的な食われた息子の対比。
そしてサトゥルヌスの表情であろうか。特にここまでの怯えきった目というのは中々描画できるものではない。
熊は怯えて人を襲うとよく言うが、サトゥルヌスのこの表情と動的なポージングは見るものに対して非常に動物的な印象を与える。
また、食らわれている息子がその最中ではなく完全に事切れていることが「捕食」的側面をより強くしている。
つまりこれは人間の皮を被った獣の絵であり、だからこそ強烈なインパクトを伴って訴えかけてくるのかもしれない。
人間は誰しもが理性で動物的な側面を押さえ込んで生活している。
それはそうしなければコミュニケーション能力という人間の最大の武器が成り立たなくなるからであり、
それはこの現代社会においても死に結びつく行為である。人間にとってコミュニケーションとは、ライオンにおける牙や爪であるがために法律があり、理性を失ったものは罰せられ、更生を求められる。
だからこそ「動物としての人間」に対して恐怖心を覚えることは必然なのである。


「Un pero semihundido en arena」もまたPinturas negrasの一つであり、個人的に大好きな絵の一つだ。
これは砂の中に埋もれていく犬が描かれた絵である。この絵の解釈には色々な説があるが、
私は大病を患い、そこから回復したものの明確に今生の終わりを意識しているゴヤ自身の象徴だという説が正しいのではないかと思う。
砂というものはもがけばもがくほど沈んでいってしまう。この砂の中に埋まってしまうことを死と定義するのであれば、
もがくことは意味をなさずただそれを受け入れることのみが答えである。
希望に縋るような表情は打つ手がないことを意味する表情であり、人ではなく犬を描くことによって「這い上がる」という行為の不可性を訴えかけているのではないだろうか。
上部の虚空は過ぎ去った日々の象徴であり、時間的な広がりを感じさせる。
ゴヤはこの一枚の絵の中に時間という形のないものを、これ以上ないほど雄弁に表現したのである。